南宗継開基の寺院
臨済宗 南陽山清源寺
臨済宗について
仏教の臨済宗は、禅宗の1つとして知られています。臨済宗の寺は、鎌倉時代から室町時代には幕府ともつながりを持ち、隆盛を極めました。臨済宗の寺は全国に点在していますので、檀家の数は決して少なくありません。
日本には5つの禅宗の宗派がありますが、臨済宗もその中の1つです。禅宗は中国から日本にもたらされた仏教であり、鎌倉時代以降に広く普及するようになりました。ちなみに、明庵栄西が鎌倉時代に日本へと伝えたのが、臨済宗の始まりと言われています。その後、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が確立されました。
臨済宗では、座禅をして悟りを得るのが修行の1つになっています。禅宗では悟りを得ることが重視されており、これまでも師から弟子へと代々悟りが伝えられてきました。座禅は、ひたすら座ることで悟りを得る修行です。身、息、心の調和を取ることで悟りが得られるというのが、この宗派の教えです。
南釈迦牟尼仏を唱えるのが、臨済宗の読経の特徴です。臨済宗を始めとする禅宗では悟りを得ることが基本になるため、日蓮宗のようにお題目を続けて唱えることはありません。南釈迦牟尼仏という言葉は、同じ禅宗である曹洞宗でも使われています。臨済宗の読経でも、この言葉を唱えてから読経が始まります。
南宗継開基の寺院
高階姓南氏は、高階氏(高氏)の高重氏の子の高頼基(南頼基)を家祖とする一族で、鎌倉幕府の重鎮足利氏の家政機関である政所の筆頭奉行を代々務め、下野国足利荘丸木郷(現在の栃木県足利市名草)の領主だった。頼基の子の惟宗の子が宗継であり、宗家で後に室町幕府初代執事となる高師直とは又従兄弟の関係にある。
鎌倉幕府滅亡後の建武政権下でははじめ京都で勤務していたが、北条氏反乱の中先代の乱(1335年)が勃発すると、足利氏の棟梁足利尊氏に供奉して東国入りした。その後の建武の乱(1336年)で尊氏が勝利し、建武政権が崩壊すると、室町幕府に仕えた。
興国7年/貞和2年(1347年)頃、備中国の守護に任じられる。その他、室町幕府では侍所頭人や三河守護などを努めたこともある。
正平4年/貞和5年(1349年)後半、高師直(及びその後ろ盾の将軍尊氏)と尊氏の弟足利直義の間で勃発した足利氏の内紛観応の擾乱では、従兄弟の大高重成など直義党につく高氏庶流もいた中、宗継は師直派(尊氏派)として行動。正平6年/観応2年(1351年)1月頃には、自身が守護を務める備中国に派遣され、直義の養子足利直冬の東進を阻止するための抑えとして配置された(『房玄法印記』観応2年1月8日条)。しかし同年2月、師直は直義に敗れて投降し、護送中に暗殺されてしまった。
正平6年/観応2年(1351年)12月、薩埵峠の戦いで尊氏が直義に勝ち、観応の擾乱は尊氏派(旧師直派)の勝利で決着する。翌正平7年/観応3年(1351年)1月2日、将軍尊氏は宗継の功に報いるため、陸奥国伊具荘(現在の宮城県伊具郡北部)、下総国印西荘(現在の千葉県印西市)、上総国飫富荘(現在の千葉県袖ケ浦市飯富)、相模国和田・深見両郷(現在の神奈川県大和市上和田・下和田・深見)、および俣野彦太郎入道[注釈 2]の跡地を宗継に与えた(足利市清源寺所蔵『将軍足利尊氏充行下文』正平7年1月2日付)。
擾乱に生き残った後は、尊氏の側近の一人として活躍[10]。当時の正式な執事は仁木頼章であったにも関わらず、宗継が執事の職権である下文施行状を発給した事例が、少なくとも2点現存する(京都大学総合博物館所蔵『駿河伊達文書』所収の『正平7年(1352年)閏2月14日付南宗継施行状』等)。この時期の活動を指して、『清源寺本高階系図』では、「尊氏執権」とさえ記されたほどである。
そして正平12年/延文2年(1357年)、現在の栃木県足利市に、臨済宗の高僧虎関師錬の高弟大道一以を開山として招き、清源寺を開基した。